無になる・有に陥る・脱却
2003年9月21日無になる、ということは。
悪いことではないけれど、きっと寂しいことなのだと。
そう、云われて気付いた。
感情が全くなくなる、というのは怖いことだ。
ある一つのことに、感情がなくなるのであれば。
その一つのことが、自分の中から消えただけに過ぎないけれど。
全ての見聞きすること、もしくは全ての事象に関して、
感情を無くす、つまり、何も感じなくなると、
自分の全てが消えうせたように感じるのではないかと思うからだ。
かといって。
溢れる物事に中に身を置いて、全てを受け入れ咀嚼して自分のものにするなんてことは、不可能に近いことで。
情報を選ぶこと、取捨選択も、生きていく上では必要なことだと思う。
けれど、友情や愛情は。
取捨選択できないし、したくない。
けれど、自分がどんなに思いを抱いても。
報われないことだって多々ある。
その報われない思いを断ち切って、捨てていくことが。
私にはなかなか出来ない。
表面上では好き嫌いのハッキリした切捨て御免の精神を貫いていたとしても。
だから私は、有に陥る。
忘れられない、ということに縛られる。
過去と現在と。
どちらが大切かと問われれば。
未来であると、答える天邪鬼。
なのに心はとらわれたまま。
過ぎ去ってしまった時に、その流れに、抗えないのは百も承知で。
けれど。
まだ、思ってしまう。
未来に目を向けつつも、後ろを振り返る私が居る。
そうまるで。後ろ歩きで未来に向かっているかのように。
幸せって何だろう。
そうゆう状態でも。
幸せだと感じることが出来たら、幸せなのだろうか。
幸せは、刹那的だ。
一瞬でしかない。
けれど、その気持ちは持続するから。
忘れないのだと思う。
忘れていても、思い出させてくれる相手が居れば。
幸せ、ということは忘れないのだろう。
なんて相手依存的。
哀しみも、きっとこれと同じで。
逆に、忘れるためには距離が必要なのだと思う。
離れられないくらい、何かに執着する。
人のものだから、とか、手に入らないものだ、とか。
色々あるだろうけれど。
執着はいけない。
愛着も、いけない。
愛は、いけない。
見ていて哀しくなるくらいの愛は。
世界は、うまく回っているかのように見えて、
実はこっけいで、無頓着で、無愛想で。
一人一人の考えなんて、ちっぽけで。
それでも、回るから。
ほんとに誰が、回しているんだろうと不思議に思う。
私は、ただ、回っているのが嫌でもがいているだけ?
有り余るくらいの感情を抱いて、それでも無を装おうとする。
そんな私は。
きっと。
けれど。
見えないのなら。
そう、見えないのなら。
きっとなんの引っかかりもなく、進むことが出来るだろう。
勘のいい人はいるけれど。
騙されない人は多いけど。
けれどけっして。
隠そうとはしていないのだから。
何の悪びれもなく。
生きていっていいのではないか。
自然体でそれとは、厄介ではあるけれど・・・。
そんな私だからかもしれない。
見えてしまうからこその、その弱点を補強する役目を、私は。
果たすために生まれてきたんだと思う。
それが誕生日を迎えてはっきりしたこと。
私はこの人のために生きていくと。
何の駆け引きもなく思える。
そして、私は。
この役目を全力で果たしてゆきたいと思う。
懺悔ではなく、後悔ではなく。
私が、私として存在する、その証として。
悪いことではないけれど、きっと寂しいことなのだと。
そう、云われて気付いた。
感情が全くなくなる、というのは怖いことだ。
ある一つのことに、感情がなくなるのであれば。
その一つのことが、自分の中から消えただけに過ぎないけれど。
全ての見聞きすること、もしくは全ての事象に関して、
感情を無くす、つまり、何も感じなくなると、
自分の全てが消えうせたように感じるのではないかと思うからだ。
かといって。
溢れる物事に中に身を置いて、全てを受け入れ咀嚼して自分のものにするなんてことは、不可能に近いことで。
情報を選ぶこと、取捨選択も、生きていく上では必要なことだと思う。
けれど、友情や愛情は。
取捨選択できないし、したくない。
けれど、自分がどんなに思いを抱いても。
報われないことだって多々ある。
その報われない思いを断ち切って、捨てていくことが。
私にはなかなか出来ない。
表面上では好き嫌いのハッキリした切捨て御免の精神を貫いていたとしても。
だから私は、有に陥る。
忘れられない、ということに縛られる。
過去と現在と。
どちらが大切かと問われれば。
未来であると、答える天邪鬼。
なのに心はとらわれたまま。
過ぎ去ってしまった時に、その流れに、抗えないのは百も承知で。
けれど。
まだ、思ってしまう。
未来に目を向けつつも、後ろを振り返る私が居る。
そうまるで。後ろ歩きで未来に向かっているかのように。
幸せって何だろう。
そうゆう状態でも。
幸せだと感じることが出来たら、幸せなのだろうか。
幸せは、刹那的だ。
一瞬でしかない。
けれど、その気持ちは持続するから。
忘れないのだと思う。
忘れていても、思い出させてくれる相手が居れば。
幸せ、ということは忘れないのだろう。
なんて相手依存的。
哀しみも、きっとこれと同じで。
逆に、忘れるためには距離が必要なのだと思う。
離れられないくらい、何かに執着する。
人のものだから、とか、手に入らないものだ、とか。
色々あるだろうけれど。
執着はいけない。
愛着も、いけない。
愛は、いけない。
見ていて哀しくなるくらいの愛は。
世界は、うまく回っているかのように見えて、
実はこっけいで、無頓着で、無愛想で。
一人一人の考えなんて、ちっぽけで。
それでも、回るから。
ほんとに誰が、回しているんだろうと不思議に思う。
私は、ただ、回っているのが嫌でもがいているだけ?
有り余るくらいの感情を抱いて、それでも無を装おうとする。
そんな私は。
きっと。
けれど。
見えないのなら。
そう、見えないのなら。
きっとなんの引っかかりもなく、進むことが出来るだろう。
勘のいい人はいるけれど。
騙されない人は多いけど。
けれどけっして。
隠そうとはしていないのだから。
何の悪びれもなく。
生きていっていいのではないか。
自然体でそれとは、厄介ではあるけれど・・・。
そんな私だからかもしれない。
見えてしまうからこその、その弱点を補強する役目を、私は。
果たすために生まれてきたんだと思う。
それが誕生日を迎えてはっきりしたこと。
私はこの人のために生きていくと。
何の駆け引きもなく思える。
そして、私は。
この役目を全力で果たしてゆきたいと思う。
懺悔ではなく、後悔ではなく。
私が、私として存在する、その証として。
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